70周年 特別鼎談discussion

70周年特別鼎談

弱い人と共に歩み、
今後も地域のための医療機関へ

聖マリア病院は「カトリックの愛の精神に基づく医療」を定款に定め、1953年9月に開設しました。結核病棟からはじまり、新生児医療や救命救急医療、透析医療を中心に、病床数1000床を超える九州最大規模の総合病院となりました。聖マリア病院の沿革や現状、今後の病院の在り方になどについて社会医療法人雪の聖母会の井手義雄理事長と福井次矢常務理事、聖マリア病院の谷口雅彦病院長に、理事長特別補佐の井手大志がうかがいました。

鼎談企画・聞き手

井手大志(社会医療法⼈雪の聖⺟会理事⻑特別補佐)=いで・たいし、41歳。久留米市出身 2007年東京理科⼤学経営学部卒業。15年岩⼿医科⼤学医学部卒業。国家公務員共済組合連合会浜の町病院、九州⼤学病院などを経て、22年から社会医療法⼈雪の聖⺟会理事⻑特別補佐

医療は地域の人のために

井手義雄(社会医療法人雪の聖母会理事長)
=いで・よしお、75歳。久留米市出身

1973年上智大学法学部卒業。同年、医療法人雪ノ聖母会聖マリア病院入職。厚生省病院管理研修所への国内留学。85年に聖マリア病院総務部長、90年に同企画部長、91年同副院長。2004年8月より医療法人雪ノ聖母会(現社会医療法人雪の聖母会)理事長就任

井手理事長から、聖マリア病院とご自身のことについてお聞かせください。

井手義雄理事長(以下、理事長) :聖マリア病院の原点は、1915年に久留米市で開院した井手内科医院にあります。院長だった井手用蔵の長男井手一郎が中心となり、52年に医療法人雪の聖母会を設立し、翌年聖マリア病院を開設しました。 私は井手一郎の次男で、医師の世界を目指すことなく東京の大学に進学しました。ちょうど70年安保闘争の激動の時代でした。父から病院を手伝うようにと何度も言われて久留米に帰り、73年当院に入職しました。まずは厚生省(現厚生労働省)の病院管理研究所へ行き、指導教官の紀伊國先生より指導を受け、その後立正佼成会附属佼成病院で実習することに。当時病院長だった小野田敏郎先生から「あなたはいずれ聖マリア病院を背負って立つことになるから、病院の全ての業務を勉強しなさい」と言われてトイレ掃除からスタートし、学ぶことが多かったですね。 当院に戻ると、すぐに救急車の運転を3年間担当しました。半径30km圏内にあるあらゆる病院の昼と夜、休日の体制を知り、病院によってこんなに違うのかと驚きました。また、医師と看護師と私がチームで行くのですが、患者さんに対する医師の救命対応もさまざまなのだと身をもって知りました。その後は病院の経営を中心にやってきました。

当院は開設時から「カトリックの愛の精神に基づく医療」を理念に掲げ、保健、医療、福祉および教育の実践を推進しながら70年の歴史を刻んでまいりました。創設者である井手一郎の経歴や考え方について教えてください。

理事長 :父である井手一郎は九州大学の放射線科で学んだ後、戦時中は軍医として陸軍航空隊に入り満州などを転々として、負傷した人の治療や救急搬送を担っていました。終戦間際には、鹿児島の知覧からの神風特攻隊の後方拠点だった福岡県の大刀洗で特攻兵の健康診断も担当し、東京の立川の研究所で酸素マスクに関する研究を担っていたことも。終戦後に九大に戻ると、被爆地の長崎へ行き、救護班員として活動したそうです。
長崎では、雪の聖母のマリア様がある聖母の騎士の教会で救護に当たっていました。被爆地の診療所にライフル銃を持ってアメリカ軍の兵隊と軍医が来たときのこと。アメリカ兵に状況を説明すると、分かったと帰っていき、翌日、ジープ型の車に山積みの医薬品と食料品を持ってきてくれたと聞きました。

79床の結核病棟から始まり、今や1000床を超える総合病院になりました。どのような経緯があったのでしょうか。

理事長 :最初の頃は父の戦争経験が大きく影響していると思います。結核患者が減ってくると救急車を購入して、当時、社会問題となっていた交通事故の救急搬送を始めました。負傷兵を運んだ経験がある父だからこその発想で、実行できたのだと思います。2011年の東日本大震災の発生直後には災害派遣医療チーム(DMAT)を派遣するなど「自ら出向く」という文化は、ここからきています。また、戦争の間、戦争孤児が集まる修道会などで巡回健診をしていた経験を基に、健診を始めました。国際協力もしようと、どんどん思いを形にしてきました。

当院では1980年頃からエジプトの病院と交流を始めて、韓国やカンボジア、イタリアなど国際的な活動が広がっています。エジプトと交流が始まったきっかけを教えてください。

理事長 :エジプトと縁ができたのは偶然でした。父が今後は国際協力が必要だというので私が国際協力事業団(現国際協力機構:JICA)に行くと、たまたま研修生を受け入れてほしいという話があり、聖マリア病院でエジプトのカイロ大学小児病院の看護師さん2人を6カ月間受け入れました。すると彼女たちがこの病院はとてもいいとJICAに伝えてくれたようで、それがエジプトの日本大使館にも伝わり、どんどん研修を受け入れるようになりました。

福井次矢(東京医科大学茨城医療センター病院長、社会医療法人雪の聖母会常務理事)
=ふくい・つぐや、72歳。高知県出身

1976年京都大学医学部卒業。84年ハーバード大学公衆衛生大学院修了。佐賀医科大学(現佐賀大学医学部)教授、京都大学大学院医学研究科教授(現同大名誉教授)等を歴任。2005年より聖路加国際病院病院長。聖路加国際大学理事長、同大学学長も一時兼務。21年より東京医科大学茨城医療センター病院長。23年より社会医療法人雪の聖母会常務理事就任

福井先生は、聖路加国際病院の病院長や聖路加国際大学理事長・学長を務められました。ご経歴と当院との関わりについてお聞かせください。

福井次矢常務理事(以下、常務理事) :私は1988年佐賀医科大学に助教授として赴任し、その年に聖マリア病院から講演を依頼されたのが最初の縁でした。佐賀医科大学の学長をはじめ皆さんが聖マリア病院のことを高く評価されていて、健診の心電図を読む手伝いもするようになりました。井手一郎先生にも何度もお会いして、宗教心を持たない者からすると、高い目標を持って運営されているなと感じていました。 その後、京都大学の教授、聖路加国際病院の病院長、聖路加国際大学の理事長・学長などを務めている間もお付き合いが続いていました。そして声を掛けていただき、2023年に雪の聖母会の常務理事に就任して、主に教育・研究を担当しています。

福井先生は聖路加国際病院っで教育と研究、「医療の質を表す指標(QI)」を推進された素晴らしい実績をお持ちです。どのような思いがあったのでしょうか。

常務理事 :私の人生を変えたのは、日野原重明先生です。日野原先生の紹介により「国のプログラムでプライマリーケアの勉強に行くように」と言われて、米ハーバード大学でプライマリーケア、今でいう総合診療について学びました。同時に臨床医は疫学を知らないと勝負できないと思い、ハーバード大学の公衆衛生大学院を修了して帰国しました。
日本に戻る機内で、医師としてやりたい四つのことをメモしました。一つは総合診療を日本に根付かせること、次に臨床疫学の考え方・方法論を医師に勉強してもらうという「根拠に基づく医療(EBM)」の普及です。三つ目は日本初の公衆衛生大学院を創設することで、これら三つは実現しました。ちなみに四つ目としてメディカルスクールをつくるために動き出しましたが、こちらはかないませんでした。ただメディカルスクールにするための前段階として、病院の機能が大学病院レベルであることを証明する目的で、特定機能病院の承認を得ました。15年かかりました。

QIにはどのように取り組まれましたか。

常務理事 :QIには大きなやりがいを感じながら推進してきました。Quality Indicatorは医療の質を評価する目安となる指標です。聖路加国際病院では2005年から100項目を超えるQIを用いて医療の質を測り、それをもとに改善し、より質の高い医療を追求するという方法を病院のマネジメントに取り入れてきました。世界的にも高い評価を受けています。すると厚生労働省が賛同して、複数の病院団体に予算をつけて広めてくれました。聖マリア病院でもうまく活用できればと考えています。

谷口雅彦(聖マリア病院病院長)
=たにぐち・まさひこ、59歳。宮崎県出身

1991年宮崎医科大学医学部卒業。97年北海道大学医学部附属病院第一外科に入局。2001年より米国コロラド大学ヘルスサイエンスセンターに留学。12年旭川医科大学外科学講座消化器病態外科学分野准教授。14年聖マリア病院に移植外科診療部長として入職。17年ロボット手術センター長、18年外科統括部長を兼任。22年4月より聖マリア病院の病院長就任

谷口病院長は外科のドクターとして当院にお越しいただき、22年から病院長を務められています。ご経歴や思いをお聞かせください。

谷口雅彦病院長(以下、病院長) :私は宮崎出身で、高校生のときに父を肝臓がんで亡くしたことが影響し、肝移植ができる肝臓外科医を志しました。宮崎医科大学を卒業し、国立がんセンターを経て北海道大学へ。17年ほど北海道大学を中心に移植医療、地域医療に取り組みました。
将来は地元の宮崎や九州に貢献したいという思いを持っていたところ、恩師に声を掛けてもらい、2014年にこちらへ入職しました。当院はまさに地域に根差した病院で地元に貢献し、私自身がずっと大切にしてきた「すべては患者さんのために」という姿勢も共通していました。入職後は、特に地域への恩返しと若い人の育成の二つに力を入れてきました。

まだまだやるべきことが

谷口先生は病院長として、これから当院をどのようにしていきたいとお考えですか。

病院長 :医学は歴史の積み重ねで、医療は先人の心血を注ぐ努力によって成り立っています。その歴史の上に立つ以上は、自分たちも歴史をつくらなければならず、それが臨床であり研究であり教育であると私は学んできました。地域を支える病院として歩んできた当院の70年間の歴史を重んじながら、さらにその上に立って次の10年、20年、30年をつくっていく責務があると考えています。
しかしながら私は入職してまだ10年の身ですので、いろいろ教えていただきながら、聖マリア病院の理念であるカトリックの愛の精神「常に弱い人々のもとに行き、常に弱い人々と共に歩むこと」をこれから先も守りつつ、さらに進化していけるように力を尽くしたいと思っています。

これから先の歴史を積み重ねていく上で、井手理事長の思いを聞かせてください。

理事長 :基本的に、医療は地域の人のためにあります。米クリーブランドにある同国でも有数のクリニックに行ったとき、100万もの人口が30万人に減少しても世界に冠たる病院として存在し続けている秘密は、地域に根差して地域を守っているからだと実感しました。当院のベースは地域の医療をどう支えていくかということで、時代の流れや周りの状況に応じて役割は変わってくるでしょう。例えば、どの病院でも救急をやれるようになれば、次は災害拠点の役割が大きくなるかもしれません。

常務理事 :地域を守るというのは、何をもって感じられたのでしょうか。

理事長 :JICAの事業で世界中の病院を巡り、巨大で近代的な建物であったとしても、お金持ちしか利用せずに閑散とした病院も見てきました。本当に地域の住民に必要とされる、地域に根差した病院であることが大切だと思っています。

病院長 :先日、脳卒中を起こされた近隣地域の患者さんから教えてもらったことがあります。その方は救急車に乗ってすぐ「聖マリア病院に行ってくれ」と頼んだそうです。とにかく絶対断らない、行ったらちゃんと治療してくれる、患者にとってこんなにいい病院は他にないと。これは当院の理念が浸透し、地域医療を支えている証しだとうれしく思いました。
一方で、インドのある病院に行ったときに、ボロボロで雑多な状態であっても、地域住民のために手術支援ロボット「ダビンチ 」で腎移植をしていて感銘を受けました。私たちはもちろん努力しているけれど、世界には桁違いの努力をしている人たちがいて、私たちがやらないといけないことはまだまだいっぱいあるなと感じました。

理事長 以前、父に「どんな医者に聖マリア病院に来てほしいか」と聞いたとき、「野戦病院のボロボロのテントでも世界一の手術ができる医者」と言っていました。

病院長 通じるものがありますね。

医療全体が変わっていく

この数年は新型コロナウイルス感染症という未知のウイルスに遭遇しました。今振り返って、どんな思いがありますか。

常務理事 :新しいウイルスが出てきたとき、人がどうなるのか改めて知ることができました。いろいろありましたが、ようやく死亡率も下がり、他のウイルスと同じようにそんなに恐怖心を持たなくていいものになりました。しかしながら患者さんの受療行動が変わり、病院としては働き方改革などもあって、今後は医療全体が変わっていかざるを得ない状況となりました。その契機の一つがコロナだったのではないかと思います。

病院長 :この3年間のコロナ禍を通して、地域の中で当院が果たすべき役割がよく見えたと感じています。当然、当院単体で全てをやることはできないわけで、地域を一つのユニットと捉え、役割を分担しながらやっていかなければいけないと勉強できました。当院は結核対応から始まり、70周年の節目に新たな感染症に出合って、もう一度原点に戻って地域医療をやらなければいけないという思いを職員全員が強くしたのではないでしょうか。

2024年3月には西鉄電車の駅名「試験場前」が「聖マリア病院前」に名称変更し、聖マリア研究センターも完成予定です。先の読めない時代といわれますが、聖マリア病院としては今後もカトリックの愛の精神に基づき、臨床と教育、研究を三つの柱とした上で、公衆衛生と臨床研究の推進がブランディングのキーポイントになるのかなと今日のお話を伺って思いました。

常務理事 :私は理事に就任してから、当院は地域に貢献しつつ、海外への医療協力など本当に素晴らしい活動を積み重ねてこられたのだと改めて知りました。当院のこれまでの実績とカトリシズムに裏打ちされた地域医療・国際協力のビジョンをもっと外に向かって発信していけるといいですね。

病院長 :柱となる臨床と教育、研究を推し進めていく中で、私は若い人たちの力に注目しています。積み重ねた「知識」と「経験」が必要な医療の組織においても、「発想力」と「想像力」を持った若い人たちが活躍することはとても重要です。この「発想力」と「想像力」を大いに発揮してもらい、これからの医療を一緒に切り開いていきたいと願っています。

理事長 :これからますます少子高齢化が進み、25年には団塊世代が後期高齢者になり、40年には高齢者数がピークとなる一方で医療や介護の担い手が激減するという深刻な問題が控えています。また多様化が進み、外国人を含めてさまざまな価値観を持った人が日本で共存することになるでしょう。
今、私にはマザーテレサの言葉が浮かびます。「世界で一番ひどい貧しさは、自分は誰からも必要とされていないと感じることなのです」。当面は日本でこのような人が増えていくと予想される中で、当院としてはどうやってサポートしていくのか、医療職全員がきちんと認識して取り組んでいく必要があると思います。そして、今後も社会や地域や住民がどんどん変わっていくのに伴い、当院では理念を大切にしながら、地域の人のための病院として柔軟に力強く歩みを進めていきたいと考えています。