聖マリア病院
あの時、あの時代memories

聖マリア病院 あの時、あの時代

70周年を迎えた聖マリア病院では、
それぞれの時代でさまざまな方が活躍しました。
そんな元職員の中から4人の方に、
かつて仲間たちと過ごした時代、
聖マリア病院への思いやエールを語ってもらいます。

元母子総合医療センター長 橋本武夫
HASHIMOTO Takeo
1972年入職。新生児科部長、副院長などを歴任。94年母子総合医療センター長。2008年聖マリア学院大学教授。12年から社会福祉法人若楠・児童発達支援センター長。佐賀県鳥栖市在住

1986年1月3日の新聞朝刊各紙の社会面に「483㌘の生命 すくすく」「脳内出血を乗り越え あす1歳」などと大きな記事が載った。全国でも数例だった体重500㌘未満の超未熟児の1年後の元気な姿と、聖マリア病院の新生児医療を広く伝えた。

救命された超未熟児の成長を伝える新聞 このグラム数の赤ちゃんは当時、生存自体が難しく、メディアから注目されました。でも実はもっと以前に大きな挑戦を成し遂げていたのです。
1976年、大牟田市立病院から運びこまれた赤ちゃんは、在胎期間がわずかに23週3日で、両手の中に納まるほどの680㌘の女の子でした。国内で最短在胎の救命例で、医療関係者は注目しました。新聞記事で紹介された医師と看護師による24時間のプロジェクトチームもこの時につくりました。貴重な体験をした看護師たちは高度なケアを身に付け、その後の救命率向上に貢献したのです。また、この年は鹿児島で国内初の五つ子が誕生し、日本中が沸いていました。
聖マリア病院は72年、総合病院として初めて新生児科を標榜し、新生児集中治療室(NICU)を導入。「地域で生まれた全てのハイリスクの新生児を、断ることなく最新のケアをする」との方針を徹底させ、地域の産科医と連携して搬送体制を築いて、全国に先駆けて75年に新生児医療の“地域化”を確立させました。78年には120床という世界最大の新生児センターが完成しました。年間1500人の新生児を受け入れる新生児医療の現場はまるで戦場のようでした。
そんな中で、68年に黄疸に対する光線療法を、72年に新生児用のCPAP(持続陽圧呼吸療法)装置を開発し、85年には人工換気症例の在宅ケアを始めました。ソフトケアでも、72年に家族へカルテを開示し、表情豊かな触れ合いのためにNICU(新生児集中治療室)のスタッフがマスクを外し、80年にはNICU専属で多職種(臨床工学技士、保育士、臨床心理士など)を導入して「優しいケア」を目指しました。88年に保育士により開発されたタッチケアは、現在学会にまで発展し、当時の保育士がスタッフとして活躍しています。これらは全て日本初であったこともあり、その後、皇太子さまにもご視察いただきました。
少子高齢化は進み、最近では豪雨災害などが多発しています。予期せぬ災害も含めて、あらゆる状況に対応するために、聖マリア病院は地域と連携する仕組みをより強固なものにしなければなりません。高度で専門的な治療や研究を目指す一方で、地域のための病院であり続けることへの使命を強く受け止めています。

元看護部長 山田公子
YAMADA Kimiko
1970年入職。84年にエジプトのカイロ大学小児病院で海外派遣指導。95年にはインドネシアストモ病院へ。スーパーバイザー(現管理師長)を経て2003年に看護部長。副院長を務め12年に退職。筑後市在住

聖マリア病院は1984年に技術指導する看護師3人をエジプトのカイロ大学小児病院へ送り出した。本格的な海外派遣の始まりでした。異文化の国で3カ月間の看護指導。毎週日本へ送った医療現場からの報告は、彼女らの奮闘ぶりを伝えた。

悩み続けた3カ月間でした。現地では清潔、不潔に対する認識が甘く、日本のやり方を押し付けては反発もされました。説明は毎回、日本語から英語、英語からアラビア語へと2人を介して現地看護師へ伝えられたので、思いがうまく伝わらずにギクシャクすることも。それでも、現地の食べ物をふるまってくれるなど和気あいあいの雰囲気を感じさせてくれました。井手一郎院長先生をはじめ、多くの方からの応援がありがたく、3人で順番に現地の様子を毎週手紙で報告しました。 異文化の国での指導はとにかく難しく、その国にあった看護を一緒に考えなければ技術は伝えられないと痛感しました。狭い価値観は吹き飛ばされ、世界観が変わりました。その後の人生の糧となりました。聖マリア病院にいたからこそ経験できた貴重な体験でした。今ではとても感謝しています。

元国際事業部 ブランディ・ジョーンズ
Brandi Jones
2016年入職し、国際事業部で事務員として活動。19年に退職。米国で看護師の資格を取り、現在はマリオン退役軍人医療センターで勤務。米国イリノイ州マリオン市在住

“Which is more important,” asked Big Panda, “the journey or the destination?”“The company.” said Tiny Dragon.
 ‐James Norbury (ジェームズ・ノーベリー作「大きなパンダと小さなドラゴン」から)

聖マリア病院の最もすばらしいと思うところは「人」です。皆さんがどう思われているかは分かりませんが、皆さんは私の教師です。 聖マリア病院にいた数年間ずっと勉強させていただいて、日本の生き方についてどんな教科書よりも多くのことを学びました。日本ならではの時間厳守と細部へのこだわり。敬意、伝統、そして親切さ。真面目な社会人とはどのような存在か。皆さんは、勤勉と献身が持つ意義を具体的に実践していました。大いなるところを目指して努力するよう励ましてくれました。 旅路や目的地に着くことよりも、共に歩んでくれる周りの人が大切であることを確信させてくれました。 心を分かち合ってくれてありがとう。これからも外国人と交流を続けていただきたいと思います。 私が皆さんから頂いたのと同じくらい多くの知恵を、皆さんがそれらの交流から得られますように。

元経営企画室 高 和珍
KO Hiwajin
2006年入職。国際協力部、経営企画室などで勤務し、日韓カトリック医療協定に伴う事務などを担当。11年退職。韓国・京幾道高陽市在住

1988年に結ばれた日韓カトリック医療技術協力協定に基づいて始まった日韓の国際交流の歴史は35年にわたる。交流を重ねる中で、事務を担当し、通訳となって両国の懸け橋となって活躍した職員も多い。

主の平和
退職して12年も経ちますが、このようにお声をかけて下さったことは「聖マリア病院は人を大事にする」ということが分かります。
私は2006年から11年までの約6年間、日韓の懸け橋としてさまざまな交流を行ってきました。より深い交流のために年間プロジェクトで国際協力部以外の部署で研修をさせていただいたり、韓国にある「ソウル聖母病院」への派遣研修をさせていただいたりもしました。私一人だとできなかった懸け橋の役割がたくさんの方々の助け、ご支援により看護師研修をはじめ医師の交流まで活発に行われたと思います。
聖マリア病院での経験は私の人生の中で忘れられない宝物です。これからも活発な交流を通して日韓の医学が益々発展できることを心からお祈りいたします。